AIR 6【感想】

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劇場版AIRを見た後、TVアニメ版のほうが映像が綺麗という話を聞いて、TVアニメ版AIRのDVDをTSUTAYAのDISCASでレンタルして順次見ているところです。
ようやく最後の1枚まで見終わりました。
第6巻には、第拾一話「うみ~sea~」と第拾二話(最終話)「そら~air~」が収録されています。

第拾一話で、これまで観鈴と同居しつつも距離をおいていた晴子ですが、観鈴を自分の子にすると決めて、橘の家に直談判に行きます。
以前の第七話で「温泉めぐりに行く」と出て行ったのは、実はこの直談判のための外出でした。
晴れて親子としてやって行けることになった晴子と観鈴ですが、観鈴の具合はどんどん悪くなって行ってしまいます。
記憶を失って行く様は、見ていて哀しかったです。
なぜ、記憶を無くしたのかは、今ひとつ分からなかったのですが。
それと、劇場版とは違って、観鈴の髪が短くなったのは、晴子が左右のバランスを取ろうとしていた結果となっていました。

最終話、観鈴は往人の名前を思い出していましたが、記憶が全部戻ったわけではなさそうでした。
また、観鈴の「もう、ゴールしてもいいよね」の先にいたのは、劇場版とは違い晴子だけでした。
既に、カラスのそらに往人の意識が移っていたので、往人は人間として存在できなかったのでしょうけど。
ただ、最後に往人が存在するかしないかは、このアニメのテーマを語る上で、大きく変わってくると思います。

そして、最後に出て来た(実は、第一話にも出ていた)砂浜にいた少年と少女、実はオープニングでAIRの文字が描かれる際の白抜きキャラクターのモチーフだったのですが、その少年が、出会ったばかりの往人と観鈴を見て「彼らには過酷な日々を。僕らには始まりを」と言います。
この意味は、アニメを見ただけではぼんやりとしか分かりませんでしたが、ネットでAIRの考察を検索して見て、ようやく分かりました。
第6巻だけは、2回見ないと理解するのは難しいかも知れません。

個人的には、先に見た劇場版AIRのほうが、テーマが明確で、ストーリーとしてまとまっていたのではないかと思えました。